悲喜に寄り添われている。

2018/10/05

南無阿弥陀佛

 

先般、台風24号チャーミーさんが立法寺にもお越しになりまして、

鐘楼堂(かねつき堂)の鬼瓦の一部を吹き飛ばしてゆかれました。

 

嵐そのものはこの目に映りませんが、その風が何かに作用しますと、確かにあった事を知らしめます。

 

この私というものも、ただ居るだけでは居ないのと同じです。

あなたが居てはじめて、ここに居ると言えるのですね。

 

いつもいつもお付き合い頂き、有難うございます。

 

昨日は娘っ子のお誕生日でありまして、この度有難くも9歳を数えさせて頂いた事です。

 

いつものように朝起きて学校へ行き、

帰ってきては宿題、ピアノの自主練習。

御夕飯を頂いて、翌日の学校の持ち物を再確認、

そしてお風呂に入って、歯を磨いて、寝る。

 

当たり前の一日。

いつも通りの一日。

 

 

ただ少し違うのは、

 

晩御飯がリクエスト御飯の、コロッケとサンドウィッチであった事と、

食後にケーキがあって、その蝋燭を吹き消せる事。

 

そして

 

こうして育ち、共に過ごしてくれた御事への感謝とよころびの念を、今、与えてくれた事。

 

 

 

これまで子供として、親からさんざん誕生日を祝ってもらいました。

 

でも

 

親として迎えると、お誕生日がこんなに嬉しいものだなんて知りませんでした。

 

 

はたしていつまで、このよろこびを味わえるのでしょう。

この世の全てのものは絶えず流動変化をすると聞きます。

 

いずれ私は居なくなる。貴方も、居なくなってしまいます。

するとどうしても、今このよろこびを失う恐怖が私を襲うのです。

 

 

しかし、ちょっとお待ちください。

 

 

昔から「悲しみは消えない」と聞きならわされています。

 

どれだけの時を経ても、無くなるわけではないと言われています。

 

 

 

ならばこそ、「よろこび」もまた、消えない、無くならないのではありませんか。

 

 

 

私は、あなたと共に居る事で得た「よろこび」を、手に入れたものだと思っています。

貴方が居るから、手に入るのだと考えています。

だから終には失う不安を被ります。

 

でも、

 

「よろこび」も、「悲しみ」と同じく、貴方からの恵まれものなのですね。

初めから私のものでもなんでもないのです。

はじめから、失くすものでも、無くなるものでもなかったのです。

 

 

どれだけ時が過ぎても、

貴方が居なくなっても、

私が先にお別れしても、

 

パッと消える・・・そんなもんじゃない。

 

貴方から授かったこの「よろこび」も、この「悲しみ」も、

 

いつまでも私は噛み締め、共に生きるのです。

 

 

合掌

 

 

御念佛をもうす処、先代住職の御言葉がよみがえります。

もう聞こえないと思っていたあの声が、耳の底を震わします。

貴方と過ごした「よろこび」も「悲しみ」も、今も共に。

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