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私の「わかってほしい」は、むごい。


南無阿弥陀佛

やっと、陽春。

いや、間もなく入梅ですね。

ようやく暑さが顔を出してきて下さいます。

私は暑いのが好きです。

夏が終わり、秋の風を感じる瞬間、次の夏を待ち焦がれるのです。

もちろん、家族は誰も同意してくれません。

それがうれしいのです。


跡取りの成長がまぶしい。

この春、おかげさまで小学校へ入れて頂き、大きなランドセルに振り回されていたのが懐かしいです。

あれから2か月、最初の緊張もしだいにほぐれ、今は運動会の練習が楽しいらしく、毎晩覚えてきたダンスと体操を披露してくれます。

跡取りの成長がまぶしい。

私が何かを言い付ける時、これまでは何でもかんでも素直に返事をしていたのが、最近はなんやかんやと口八丁に言い訳を並べ立てて、動きません。

「子供は親の言うことは聞かないが、やることは真似る」とは流石の言葉。

私が“言い訳番長”であることを、すっかり見抜いているのでしょうね。

子供はスゴイなぁとしみじみ思いつつ叱りますと、自分も一緒に叱られている気分です。

跡取りの成長がまぶしい。

先ほども、朝食の卵料理を目玉焼きにするのかオムレツにするのかで、6時半からグズグズしておりました。

こちらとしては一分一秒を争いたい朝の時間。

朝食のメニューくらいとっとと決めて欲しいのですが彼には通じません。

終いには「いつも言っているんだから(僕の食べたいものくらい)わかるでしょ?」と彼は、のたまいます。

ああもう、何から何まで小さい頃の私を見ているようで、腹が立つよりも恥ずかしくて笑いが起こります。

そうだよね、きみにも「わかってほしい」ことがあるんだよね。

以心伝心。

本来は佛教、禅の御言葉でありますが、「文字や言葉を使わなくても、お互いの心と心で通じ合うこと」という意で、用いられるようです。

ちなみに私は、心のどこかで、いつもそれを願って生きています。

私の思うことが相手に伝わる。

それはとっても素敵なようですが、いかがでしょうか。

同じように、相手の考えが私に伝わるとしたら。

それを歓迎したい相手も確かにいるでしょうが、それでは困る、顔も見たくない、声も聞きたくない相手も私の中にはいるのでしょう。

詰まるところ、私の願う“以心伝心”は日頃の行いと同じく、

自分の都合の良い相手に、自分の都合の良い内容を、自分の都合で押し付けるだけ。

私の「わかってほしい」は、イコール「あなたのことをわかりたい」ではないのです。

しかしそれが悲しいことだと理解する気もなく、今日も「わかってくれない」と愚癡をまき散らします。

この重病を癒すには、悲しみを知らされることです。

しかし私には上述の通り、悲しみのカケラもありません。

本当に悲しむべきことが何かわからないばかりか、たまたま悲しみが恵まれても悲しむ事は不幸なのだと、逃げ出すからです。

悲しみの心をもつことのできないわれらに向かって、おおいなる悲しみの心をおこされたのが、如来の大悲である。(川瀬 和敬 師)

如来様の悲しみが、私の悲しみを引き起こさずにはおれません。

私は独りでは泣けません、耐えられません。

でもあなたが、共に泣いてくださるから。

「わかってほしい」

いやいや、私が出来ない事を、どうしてあなたに強要できましょうか。

われらは、共にわかりあえない者同士。

だからこそ、わかりあいたいのです。

合掌

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