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治らなくてすくわれる。

南無阿弥陀佛

【住職】


温さと寒さが代わる代わるお出ましになり、

新しい季節を準備されているようです。


本来、線引きなど出来ぬはずであろう季節の移り変わり。


まだ冬か、もう春だ、となんとか線を引こうとするのは、

無粋な我が愚かさの臭みによるものなのでしょう。





衣替え待ち遠しい時節と相成りました。


冒頭申し上げた通り、

現在三寒四温の真っただ中であります。


が、その心地良い曖昧さの中、

花ならぬ、我が鼻、

そして我が腹、我が目の皆様方に於きましては、

キッチリと、春の証しの「花粉症」さんが、

お出ましになってます。



思い返せば、

中学2年生の時に発症して以来のおつきあいですから、

もう間も無く四半世紀となりましょうか。


症状の出始めた当時は、勿論知識も経験も皆無であり、

痒みにまかせて目をこすっては瞼を開けられなくなり、

止まらぬ鼻水と鼻づまりにフガフガと酸欠になり、

肌荒れ腸荒れエヘン虫に襲われては、

満開の桜の空が、まことに恨めしくなりました。


従って、なんとかこの症状が逃れたい、

少しでも苦しみを減らしたいと考えて、

あの薬、この療法と、それなりに色々試してみましたが、

やはり完治には程遠く、すっかり春嫌いになったあの頃を、

今は懐かしく想い返す次第です。



さてココで、

「念佛を唱えて、すっかり良くなって、春が大好きになりました!」という話をするかと言えば、当然そうではありません。

どれだけ称えた処で、ただのひとつとて、私の都合よく事が運ぶワケではない事は、

皆々様お察しの通り、であります。



川瀬和敬 師は、

「この現実が、思うにまかせてどうにかなるのなら、念佛など要らないことになる。」

と仰いました。


また、

「あの思いもこの思いも敗れ果てて、どうにもならなくて困っている私のために、念佛があるのである。」

と示されます。



私は、【(私の思う)悪い状態】から【(私の思う)良い状態】へと変化する事を「是」とし、

それこそが「満足」で「幸せ」で「救い」であると、疑いません。


しかし御念佛もうす中、

佛法に我が身が問われる最中、

如来様の智慧の眼をお借りすれば、

仮に私の希望が全て叶い、

「ぼくのかんがえたしあわせ」が実現した処で、

畢竟、また新たな苦しみの種が増えているだけで、

まことの満足とは、一切関係無い事が暴かれます。



如来様は「(私の都合上)不自由の象徴である」私の病気を、

決して治してはくださいません。


如来様が我を念じたもうその道は、

私に仇を為すものにも豊かなはたらきがあった事を気付かしめる大道です。


そこは、どんな「不自由」や「不安」に襲われようとも、

決して「不幸」や「むなしさ」とイコールで繋がせぬ、

まことの安心がひらかれているのです。





・・・あ、病気を放っておくという事ではありませんよ。


現に私も、症状が出来るだけ軽くなるよう、

目薬・飲み薬・点鼻薬を毎日授かっております。


現実問題として「不自由」は少ないに越した事はありませんので。




ただし、大切な御事は、


「不自由」がひとつも無くならなくても決して「不幸」ではない。


ココから、スタート、なのです。




合掌



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