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持ち替えても、重いものは重い。

更新日:2019年3月1日


南無阿弥陀佛

おはようございます。

久方ぶりのまとまった雨が空気を潤します。

最近の天気予報は滅多に外れませんね。

この雲も、昨日の報せの通りでした。

「おそらく」今晩には星空を拝める事でしょう。

しかし、今後どれだけ予報の精度を上げて頂いても、

「おそらく」という慎みを忘れぬよう忘れぬよう。


先般申し上げました通り、流感の季節が参ります。

インフルエンザの予防接種も始まっておりますので、

先日、子供達と共に早速打って頂いたところです。

しかし注射となりますと、子供達の足取りが重くなります。

やはり皆、「痛い」注射は苦手のようです。

昔は「予防接種」「注射」というだけで、泣き出したものでした。

現在は「帰り道にアイスを買ってもらう」事で、なんとか手を打って頂いております(笑)

ちなみに、私は、注射が好きです!

・・・こう、切り出すとほぼ100%の御方が顔をしかめられますが。

もちろん痛みが全く無いわけではありません。

しかしそれよりも「興味」や「好奇心」が勝るのです。

「よくあんなもの(針)を刺して、無事でいられるな。」とか、

「出血もほとんど無く、素晴らしい技術だな。」とか、

そんな事をぼんやり考えながら、この度も針が刺さる様をまじまじと見ておた次第です。

扨々、僧侶の装いをさせて頂いておりますと、

時折「佛教って結局、心の問題、心の持ち方なんでしょう?」とお問い合わせを授かります。

物事を一方向から見るのではなく、別の面からも見られるようにしよう、と。

「人生の苦難」を別のとらえ方で歩んでいけるようになろう、と。

「佛教は心の思い方、持ち方をコントロールする方法なんですか?」と。

確かに、佛教を味わい、御念佛を賜り、楽しむ中に於いて、

過去・現在・未来を貫いて、ものの見方が変わる、というのは信心の智慧といえるでしょう。

しかしその智慧の出どころが、一切、私の中からでは無い、という点が、

「(私のはからいによる)心の持ち方」と大きく異なります。

喩えるならば、私という人間は、

「思い通りにならない事」を苦難という重い荷物として持ち、

人生をという荒野を独り歩き続ける旅人といえるでしょう。

荷物を持つ手は、その重さによって次第に震えてきますから、

我慢が出来なくなりますと、もう一方の手や肩に持ち替えます。

すると一刻、気持ちが楽になりますから、また歩みを続けるのです。

しかし歩めば歩むほど、「思い通りにならない事」は膨れ上がりますので、

愈々「私の人生はなんだったのだろう」との妄想に拍車がかかるのです。

御念佛の御教えは、この私に「そもそも、それは荷物じゃない」と示されます。

私が「重石だ、やっかいな荷物だ」と思い込み、

「この荷物を降ろせば幸せになれるはずだ」との

凝り固まった勘違いを、今、正に打ち壊さんと、はたらかれます。

ただし、

如来様のなしわざは、「苦難」を「享楽」に変えてしまうわけではありません。

「苦難」は「苦難」のそのままに、その重さが、宝と輝くのです。

私は注射が好きだと言っても、「痛み」そのものを受け入れたワケではありません。

ただ単に「痛み」を、「興味」に持ち替えているだけなのですから。

「心の持ち方」などという私の小細工では扱いきれないほどの苦難をも、

御念佛の御教えは、我をして歩ましめんと、今日も私に喚び掛け続けられるのです。

光のなかで新しい第一歩がふみ出されても、苦悩は消えるものではない。

苦悩に耐える力をめぐむものが信心である。(川瀬和敬 師)

合掌

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