「なんで寿命がわからないの?」
南無阿弥陀佛
先般申し上げました通り、
間も無く始まる報恩講に向けて、理容店で髪を切って頂きました。
短くなった髪の毛に、気合も入ぬワケがない!という処ですが、
初冬の早朝、開門に向けて境内に繰り出しますと、
寒さが、身体に、いや、頭皮に食い込みます。
冬さん、冬さん、こんな処に御出ででありましたか。
まことに身に沁みるとは、このことでしょうか(笑)
あるがまま、我が身に沁み入り、冬を心に届けしめん。
跡取り息子はこの春、小学1年生にして頂いて久しく。
そろそろ「なんで?なんで?」と問われる事も少なくなってきました。
そんな中で、不意打ちのように問われたのが標記の事。
一緒にお風呂に入っていると、ポカポカの顔をした彼が言ったのです。
「なんでのんのんさんになる日は、わからないの?」
その問いに正直びっくりしてしまいました。いやはや。
ちなみに、のんのんさまとは「のんのん、ののさま、ほとけさま」の通りです。
死ぬ日がわからないのは、何故か?と彼は聞きます。
どのように応えるべきか、一瞬の間の後に、私は口を開きます。
― それじゃあ、もしも死んじゃう日が・・・例えば50年先、100年先だとして、納得できる?
「??」
― キミが80歳のお誕生日で死んじゃうとして、誕生日がどんどん近づいて来るのは嬉しいかな?
「ううん、うれしくない。」
― 明日は最後のお誕生日、そんな一日、どんな気分で過ごすんだろう?朝起きて昼過ぎて夜ご飯を食べる時とか。
「ぜったい、やなきぶん。」
― そうだね、だから、わからなくしてもらってあるんだよ。
「ふーん。そっか。」
果たして彼に伝えられたのでしょうか。
いやいや、伝わる事に私の為しわざはありませんから、今は、これが精一杯。
申し訳ない。
私は、わからない事が、わかる事に無上のよろこびをおぼえます。
出来なかったことが出来る人生を歩みたいのです。
そんな私に、如来様は私の「わかる」が大したものでないという事と、
「わからない」という御事の不可思議な尊さを示されます。
「わかる」を至上とする生活は、「わからない」事や人を蔑みます。
この世とは、私に於いて「わかりようもない」ものだったと悲しむ処に、
だからこそ「わかりたい」と道を求める世界がひらかれてくるのです。
彼の質問にこたえた後、私は返します。
― もしかして学校でそういう話が出たの?
「ううん、ぜんぜん。」
・・・いったいどこからそんな問いが湧いて来たのでしょう。
正直、こういう質問がなされた事が嬉しい私は、まことの親馬鹿であります。
合掌
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