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矢印の向きが、かわる。


南無阿弥陀佛

台風去ってまた台風。

お空が落ち着く様子はありません。

気付けば蝉の鳴き声が消えました。

あれだけうるさかったものが急になくなりますと、何故かさみしくなるのが勝手なところ。

しかしツクツクボウシの声すら聞こえず、鈴虫が鳴き始める事態には不気味さもおぼえます。

どうやら、この度は私の思う季節の移り変わり様ではなかったようですね。


秋の声に誘われますと、ふと昔の事を想い出します。

前住職が、仲間のお坊さんからお聞きしたお話です。

ある時、あやまちを犯した者がいた。

人を悲しませていた。

長い時間が経ち、今度はその事を悔いて謝罪をするという。

ある人は、その場に私が立会う事を望んだ。

当日、私は、人が自らのふるまいに頭を下げる姿に直面した。

ある人が、この者に何か言葉を掛けてやれと言った。

しかし、私は声を上げることが出来なかった。

私ならば、その時どんな言葉が掛けられた事でしょう。

「何故こんなことをしてしまったのか。」

「まだまだ謝罪が足らないではないか。」

「本当に反省しているのか。」

「いやいや、許してはならない。」

「もう二度としてはならないぞ。」

他人をとがめる言葉は現にこうして湯水のように湧き出します。

相手は罪人だ。

私は罪を犯してはいない。

だから私は相手を正す事ができる。

文字に起こし、言葉に発すると、これほどまでに寒気のする言葉達。

しかし私は日常的に、自分とは別に「悪」をこしらえて、笑顔で鞭を打っています。

このような私には、自身の悪性を認める力などあろうはずがないのです。 多少目についても、「あの人よりはマシだ。」と見ぬふりをするのです。

御念佛の信心には、信心の風光には、他者を非難する世界はありません。 そこはどこまでも、自己があきらかにされ、自身の悪性を悲しまれるところです。

勿論、相手の罪を見ないようにするわけでも、罪が無かった事になるわけでもありません。

御念佛もうすところ、他人をとがめる言葉が、すべてひっくり返ります。 目の前の罪とがも、全て私への問いとなるのです。

それらを前にして、私は抵抗のしようがありません。 徹底的に問われるのは、他ならぬこの私なのです。

もしも干乾びる死骸の如くのこの身において、

如来様より一滴のうるおいが恵まれたならば、

罪びとを前にして出でくる言葉はただ一つ。

「私も、気を付けます。」

肉眼は他の非が見える、佛眼は自己の非にめざめる。(川瀬和敬 師)

合掌

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