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悲しむことは、不幸じゃない。


南無阿弥陀佛

過日、おかげさまでお誕生日を迎えられまして、満で37歳にして頂きました。

ここのところ、日々諸々授かる御縁に一喜一憂しながらも、その毎日にじんわりとしたうれしさを噛み締めております。

一体、このうれしさがどこから来るのでしょう。

それは、私に無常の理が恵まれているからです。

死があるからです。

このように思いますと、私の全てが、力の限りをもって否定しようと騒ぎますが、それはちっぽけな声に過ぎないのです。


という事で、アラフォー真っ最中のごえんさんです。

37年前の夏、私はここにこうして生まれさせて頂き、「知道」という名前を授かりました。

読み方は「ちどう」でありますが、何故かお店屋さんに電話予約をさせて頂くと、入店時に「お待ちしておりました。オカ ジロウ様ですか?」や「シロウ様ですね?」といつも確認されます。

ちなみに戸籍上も、僧侶としても、同じく「知道」であります。

中学の頃、私は父に“名前のいわれ”をたずねました。

「この名前に、いったいどんな由来があるの?」と。

前住職の言でよく覚えているのは、「お前の“知”の字は、智慧が無い“知”だぞ。」という事。

そして「“道”は佛道、大道。如来様のおひらきになった道。つまり“知道”とは、皆を漏らさず通らしめる大道の広さを、煩悩の身である私が知らされるという事であり、それは同時に自身の狭さを知らされる事である。そこが尊い、有難い。」という事でした。

ハッキリ言って意味がわからず、頭の中は「???」でした。

「ほとけさまの大きな道を知り、頑張って歩め!」とかなら解りやすかったのに。

そんな私がある御言葉に出遇ったのは2年ほど前の事。

この私の目に飛び込んできたのは、

川瀬和敬 師の「知ることは悲しみである」という言葉でした。

いつも拝読している御本の一行なのに、その日はその御言葉から目が離せませんでした。

文中で師は、今は亡き土屋文明 氏のうた

 『今にして知りて悲しむ父母の われにしませしその片思い』

という うたをお引きになり、「知ることは悲しみである。」と示されました。

似たような言葉に、「孝行のしたい時には親はなし」という言葉を聞きますが、そういえば前住職は「これは後悔の言葉でもあるが、よろこびの言葉でもある」と言っていた事を、この御言葉を目にした時、ふと思い出したのです。

親の恩を片思いとさせて来たこの身の罪深さを思い知らされますと、私はいよいよ身の置き所が無いのですが、それは同時に深いおかげさまに気付かされているという事に他なりません。

亡き親は、その声なき大音声にて、私にあなたという存在の、まことの尊さを気付かせて下さるのです。

本当に悲しく虚しいのは、御恩を知らずに過ごす事であり、「悲しみを知らされる」ところにこそ、(凡夫の私には理解出来ませんが)実は深いよろこびが満ちているのですね。

この悲しみを思い知らされるところ、そこは既に如来様の大道の真っ只中です。

如来様より見捨てられず厭きられず、常に念ぜられていたという事実です。

“知道”という名前はこの大切な御事を「忘れておるぞ」と常に寄り添って念じ続けて下さっているのでした。

このように、37回目のお誕生日に改めて頷かされ、手が合わさる事でありました。

合掌

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