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そのお見舞いは、誰の為か。


南無阿弥陀佛

境内の蓮がいよいよ開花を始めてくれています。 小さな鉢ですが、茎は精一杯に天を仰いで、花は大輪。どこに居てもこの眼に飛び込むよう、ひろやかに輝きを放ちます。 今日もお花は私を楽しませて下さいます。 嗚呼、有難い。

もったいない。


幾日か前、大阪府北部を震源とする大きな地震がありました。 ここ三重の北部も震度4が観測され、緊急地震速報のアラーム音が、今も耳に残ります。

揺れが落ち着いた後には、近々御法事が控えている御同行の御方や、関西に御縁のある友人に、メールなどで「お見舞い」を申し上げ、現況を伺った事でした。

数え切れぬほどの被害状況があきらかとなる中、浄土真宗 内の動きとしては、京都に御本山を頂く浄土真宗本願寺派 様真宗大谷派 様で、早くからホームページに「お見舞い」の文言が掲載され、更には全国に所属の御寺院がある御両派でありますから、一般寺院の被害状況もつぶさにお知らせ下さっています。

御両派の迅速なるご対応に、頭が下がるばかりですが、このように目に見えるカタチが取られていなくとも、様々な分野で多くの御方が、一刻も早い回復を念じて、はたらき詰めにはたらいていらっしゃるであろう事は間違いのない、という事を忘れぬようにしたいと思います。

扨、立法寺ホームページに於きましては、ご覧の通り何も変わっておりません。

名の知られぬどなたかを見舞い、慰撫する心が無いと思われても仕方がない状態です。

色々な言い訳が頭をよぎりますが、何も変えていないのが、私の事実です。

このような私が、冒頭に述べたように「お見舞い」を口に出来たのは、私から出でたものではなく、私に於いて、せずにはおれなくさせる、力強いおはたらきにうながされて、はじめて出て来たものなのです。

詰まるところ、この度、たまたま「お見舞い」というものが私から漏れ来たったのは、たまたまに近しい御縁が調っていたからです。

あなたが居なければ、「ああ地震?大変だね」で終わる事であったしょう。

「大変」なのは、大切なものが欠落している私だというのに。

ひとを、他人と見誤るところに地獄があります。

私は、地獄の業火に焼かれているのです。

そんな私をいたまれる如来様が、あなたとなって、この度も私をつかまえて下さいました。

私はその手を引き剥がそうとするのですが、あなたは私を離しません。

誰かをいたわる事実は、私に大切な事を教えて下さっています。

恥ずべく、悲しむべきなのが誰か。

すくわれるべきは誰なのか。

そうなんです。

「お見舞い」する方から、「お見舞い」されていた私なのでした。

厳粛な事実に上辺だけの言葉は申し上げられません。

ただ念佛。

それだけです。

合掌

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