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「ごめん」は私の手柄じゃない。


南無阿弥陀佛

季節が変わりつつある今日この頃。 皆さま、いかがお過ごしでしょうか。

私と言えば、タンスの中身が変わりました。

これから暫くは半袖さん、お世話になります。

ちなみにこの時期、毎年思うのは年々服の種類が減っている事。

もちろん私は「着まわし上手」なワケではありませんが、個人的には手持ちが少なくなっていく事を、嬉しく思うのです。


昨夕から、跡取り息子が尋ねます。

「ごめんなさいって、いったほうがいい?」

実は昨日下校後、宿題をしている際に、彼はそのプリントを、思わず破いてしまったのです。

本人もびっくりするほど大きく裂けておりましたので、伯母が見かねてセロハンテープで修復してくれたのでした。

宿題プリントの空欄は間違いなく埋められ、破れた箇所もテープでキッチリ補修されています。

しかし彼は、大切なものを壊してしまった事実におののき、心の内では、どうしようもない思いが渦巻いていたのでしょう。

それからというもの、遊んでいても、御夕飯をいただいている間も、お風呂に入っても、寝る前にも、今朝起きてからも、登校するのに靴を履いている時にも、何度も何度も私たち大人に聞くのです。

「先生にごめんなさいって、いったほうがいい?」と。

私は言います。

言っても言わなくても、まかせると。

謝ったから良い子、黙っていたから悪い子だとは、思わないと。

先生も、(補修してあるし)きっと気になさらないだろうと。

しかし、それでも、言わずにおれないならば、ちゃんと「ごめんなさい」って謝ろうと。

彼から幾度も尋ねられる度、私は言葉を補いながら、繰り返します。

彼も飽きる事無く同じ質問を繰り返しつつ、自分の中で何かを確認しているようでした。

そして最後まで迷い続け、こたえを出せぬまま、今朝方、彼は学校へ出発しました。

その姿を、私は拝まずにはおれませんでした。

彼はきっと私の為に、わざわざ迷う姿をあらわしてくれたのです。

彼がずっと言うか言うまいか迷っていたのは、「理想の自分」を守る為。 私と同じく《過ちを犯す自分》を認めたくないのです。

でも真の「ごめんなさい」は、そんな私の殻を突き破り、私の頑なな下がらぬ頭を、下げさせて下さいます。

勿論、逆に「ごめんなさい」を自分の物として振り回し、謝罪によって何かを手に入れようとしたり、謝る事の出来る自分を自慢するという悲しみを、私は持ち合わせています。

しかし、真の「ごめんなさい」とは、相手の為ではなく、私の為に授かるものです。

謝らずにはおれないほどの貴方が居て下さり、謝る事が許される御縁が調ってはじめて、この身を突き動かし、この心を打つのです。

先ほど帰宅して一番、彼は元気よく言いました。

「ごめんなさいって、いえたよ!」

登校前はあんなに暗い表情だったのが、明るい笑顔で満たされています。

とりあえず私は、ここぞとばかりに、ぎゅーっと抱きしめさせて頂きました。

頭の下がるひとは、救われる道のあることを知っている人である。(川瀬和敬 師)

合掌

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