間違いに気付かず生きたいのが私。
- 立法寺
- 2018年3月31日
- 読了時間: 2分
南無阿弥陀佛
おはようございます。土曜日の朝となりました。
忙しさにかまけてこの体たらく。
「いつものことじゃないか。」
確かにそうです。皆さまよくご存知の通りです。
でも、このままにはしたくない自分がおります。
これからも金曜更新を目標にまいります。

昨日から「永代経」というおつとめが始まりました。 あの方この方のご参集、誠に頭が下がります。
このような法会(ホウエ:佛事をつとめる集まり)には、いわゆる「読経」と共に、「説教」という如来様の御教えを皆さま共に味わい合う「おはなし」があります。
そこで頂くのは、「どうしたら私は救われるか」ではなく、「如来様は、いかにして私をお救いになるか」というおはなしです。
前回の表題「私は、私を救えない。」
この言葉を皆さまがどのようにお受け取りになったかは定かではありませんが、これは、よろこびの言葉なのです。
悲しみと共にある、よろこびです。
毎日、私が大切にこしらえるもの。 離さぬよう、失くさないように必死に握りしめるもの。
実にはそれらが「救い」とは何の関係もないと知らされる。
何かを得て幸せになるのではなく、
何かを失って不幸になるのでもなかった。
本当に虚しいことが如来様から知らされる。
間違っていた私が、あきらかとなる。
これがよろこびです。
私は悲しいけれど、
知らされたくなかったけれど、
でも、深いよろこびなのです。
「損をせず、得をしなければならない。」
生まれてからずっとこの身に染みつく「私が私を縛りつける」悲しさを知らしめるその場所は、如来様のおはたらき、他力の中でありました。
そこは、特別な時間・限られた場所ではありません。
実は普段から、いたるところで他力は花ざかりなのです。
それらがみられぬこの私に、みえる眼を授けて下さるのが如来のおはたらきなのです。
合掌
あ、もちろんその眼が「私の所有物」とならない事は、どうか忘れぬよう忘れぬよう。
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