無常の風は、慈悲の風。

2019/01/04

南無阿弥陀佛

 

 

あけましたあけました。

改めまして、初春の御挨拶を申し上げます。

 

平成最後の初日の出は(寝ていたので)拝む事はありませんでしたが、

それはそれは見事なものだと皆様嬉しそうに教えてくださいました。

 

いつだって太陽は太陽じゃないかと仰る方もいらっしゃいます。

そのような眼差しも、確かに大切です。

 

 

しかし、いつもと同じはずのものが、「今は」一層輝いて見えた。

そこにはいったいどんなおはたらきを授かっていたのでしょうか。

 

私はそこに手が合わさるのです。

 

昨年もお葬式の多い年となりました。

嗚呼、誠に誠にお淋しいことであります。

 

テレビの向こうで見知らぬ人が何人亡くなっても「へー」で済ますこの私ですが、

小さい頃から大切に大切にお育て頂いた、あの御方この御方の御往生に際しますと、

否が応にでも“無常の風”を感じずにはおれません。

 


“諸行無常”は「常なるものはひとつとして存在しない」というお釋迦さまの金言ですが、

この“無常”が、よく“風”に喩えられるのは、「命の灯を一瞬にして吹き消すところ」に由来する説があると、聞かせて頂いています。

 

 

命を蝋燭にともる炎と喩えるならば、

その「長さ」にも「太さ」にも、まして「火の勢い」にも関わることなく、

この“無常の風”が吹きますと一瞬で灯は消えてしまうのです。

 

老若男女も、貴賤も、知者愚者も、貴方も私も、差別なく皆等しく。

これが“無常”の姿です。

 


私はこれを「はかない」と感じ、「悲しい」と嘆き、「苦しい」と味わいます。

 

こんな出来事は、こんな想いは、

私の人生に於いて「不要」で「無益」で「無駄」なものだと思っています。

 

 

しかししかし、

どうか阿弥陀如来様の智慧と慈悲と共に味わい直してください。

 

 

この「悲しみ」が無ければ、

私は命が限りあるものだとわからなかったでしょう。

この「苦しみ」が無ければ、

私はあなたの尊さに気付かされることもなかったでしょう。

 

 

こんな経験なんてしたくなかった。

でも、この経験こそが、私に本当の有難さを呼び掛けてくださっているのです。

 

「生まれたから死ぬ」こんな当たり前なことなのに、私は決して理解しない。

 

しかし「南無阿弥陀佛」の如来様と共にある時だけは、

この「悲しみ」が決して無意味でなかった、

私には計り知られないほどの無量の意味をもっていたことを噛み締めさせられるのです。

 

 


“風”は目に映りませんが、何かに作用した時に、その存在が知らされます。

 

 

「今生の別れ」は、その灯が消えることによって“無常”という見えないものあきらかにさせ、

また同時に“あなたという存在の尊さ”を教えて下さいました。

 


死してなお、あなたから恵まれる御恩にうなだれながら、

今年も御念佛を賜る日暮し日暮しであります。

 

 

合掌
 

 

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