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「老」なる相。「老」なる師。①


南無阿弥陀佛 お盆も終わり、暑さもゆるみ、新学期も始まってホッと一息かと思えば、いやいやそうはいかない日々を授かっています。 それというのも、これというのも、私が欲張りだからです。 アレもしてコレもして、凄い事をやって、そしてほめられたいの繰り返し。 ついには授かったヘルニアも、「いやはや大変なんですよぉ」と自慢して回る始末。 嗚呼こんな私にこそ、「忘れておるぞ 忘れておるぞ」と御声掛け下さる、

このかたじけなさよ かたじけなさよ。


今月に入りましてあれよあれよと一週間。

本当に月日の流れが速く感じてなりません。

このまま過ぎれば晦日を数えて幾数日。

あっという間に新年の声を聞いている事でしょう。 40歳を前にしてこの有り様ですから、これから生き長らえる事を許されて歳を重ねていくならば、いったいどんな世界をみせて頂けるのでしょうか。 この9月は老人の日があります。

そういえば、近ごろは「老人」という響きを嫌い、敬老会や老人会から「老」の文字が消えているとの声を聞いて、久しい事でありました。

確かに「老」は、杖をつくヒトの姿であり、年を重ねた姿。 それは出来ていたことが、出来なくなっていく姿と考える事も出来ましょうから、虚しさの象徴に感じる御方もいらっしゃる事でありましょう。 しかし「老」とは、悲喜混然の様々な得難い経験・体験を重ね、無明の課題をこの私に問いかけ続けて下さる尊い御姿への敬称なのだと、私は聞かせて頂いている処です。 扨、この“身”で味わったものが、何より得難い一大事なのです。 普通、宗教とは、私の心を動かし、どうにかするものであると言われます。 真宗に於いても、「如来の廻向により、衆生廻心を果たす」と聞いております。 しかし、この私の心が、ちょっとやそっとでは・・・いや、どう足掻いても自らの努力で清浄になるはずがない。 私の煩悩は、この身に満ちて深く根付いておりますから、そうそう無くなるものではありません。努力と言いましたが、自分の都合の悪い事には力を注ぎません。

私の鉛の心を私が磨いた処で、黄金に変わるわけがないのです。 われらの如来様は、それらをまるっと御見通しでありまして、 だからこそ、今、御念佛として、はたらかれるのです。 御念佛もうすとは、佛より念ぜられて、わが身が動かされた姿。 先ず身を動かし、身体で味わう御事を通して、私へとはたらかれるのです。 前住職は、“人間は「汗を流すか、涙を流すか、血を流さねば」本当に頷けない”とよく言っておりました。 私などでは計り知られぬ多くの経験を重ねた「老」なる方に、これからも大切な御事を聞いて参りたいと念ずる、秋の日であります。 合掌

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