私は、佛法を聴きたいか。
南無阿弥陀佛
【住職】
春になったと思ったら、
もう梅雨が見えてきました。
「年月の徒(いたづら)にうつりゆくことをしらず。」
御書拝読の際に、耳に飛び込んでくださる御言葉ですが、
正しく、この私のこと。
年月が勝手に過ぎ去っているのではありません。
折角に許された年月を、
この私こそが、空過させ続けているのです。
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不思議の御縁で今ここに息する事を許されて37年。
僧侶にして頂いて28年。
住職をさせて頂き15年。
小学3年生の家庭訪問の際、
担任の先生に「岡くんはもうちょっと寄り道してもいいんだよ。」と
言って頂いた事も懐かしいばかりですが、
御縁は次々に紡ぎ合い繋がり合って、
こうして御念佛授かり、佛法に聞く毎日です。
「どうしてこうなった。」
他者に尋ねられても、自ら問い返しても、
本当に「たまたま」だなぁと噛み締めるばかり。
ただ、わからぬまま御念佛もうす中で知らされるのは、
私から望んで聴こうとしたわけではないのだということ。
なるほど、
私が求めるのは、私の得になるものだけですから、
そのような祈りを全て蹴散らす御念佛の御教えを、
自ずから求めるはずもないのです。
ですから、
私に於いては、
「聞きたくなかった。」のが佛法です。
しかし、
「聞かずにはおれなかった。」これが御念佛です。
ここに、この私に、
この御法を聞かしめたいとの願いが
確かにはたらいています。
私がすぐれているから御念佛をもうしているのではなく、
どうにもならない私だからこそ、
如来様は願いを掛けられ、
佛法聞える身となしくださったのです。
如来様は様々に姿を変えて、この私にはたらかれます。
ですからあなたも、
私に御念佛をおとどけくださるほとけさまなのですね。
そのお恵みが、私に佛法を聞かしめます。
その御教えは私の物差しからすると、
決して、決して望ましいものではないのですが、
そんな私をひっくり返すはたらきに、
ただただひれ伏すばかりです。
「 聞く耳のないものを、佛は心配して、
佛の声の聞こえる耳を、佛が与えたもうのである。 」
川瀬和敬師の金言を噛み締めながら、
今日も聞く御事を授かります。
合掌
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