貧乏という豊かさ。

南無阿弥陀佛 秋の日はつるべ落とし。 立冬も過ぎ、どんどん日没がはやまっております。 五時も過ぎれば四半時を待たずのあっという間に。 気温も下がればテンションも下がるという事で、 冬の夕闇は、格別にさみしさをおぼえるものですが、 青い夕日がほんのりと残るその瞬間は、 本来、目には映らない闇が闇としてそのまま浮かび上がる、 稀有なる瞬間なのです。 「ねぇねぇ、うちは びんぼうなの・・・?」 ある日突然、娘が坊守に聞きました。 家庭の、金銭的な、経済的な、心配をしていたのでしょうか。 そこで、すかさず坊守は、 「そうだよ。」と答えたそうです。 それを聞いた娘っ子は「ふ~ん・・・。」と、 納得したような、腑に落ちないような顔をしていたという事でした。 (お寺はおかげさまで困窮しておりません。予てよりの御護り、深く御礼申し上げます。) ----------- 「うちはびんぼうなの??」 こう聞かれたならば、私はどのように答えるでしょうか? 「違うよ、大丈夫だよ。」とか、 「そんなに貧乏ではないよ。」とか、 もしかしたら「あそこよりはマシだよ」とか、 なんらかのカタチで「貧乏」を否定をしたくなる気持ちが、 私の中からは、少なからず起こってくるのが事実です。 ----------- 今から30年ほど昔、私が小学生であった頃。 何かどこかの宿題であったか、実際は何であったか定かではありませんが、 【おうちの職業を調べましょう】という課題がありました。 しかして、その日の夜、御夕飯も終わった頃、早速父親に尋ねました。 きっと「おぼうさんだよ」とか「おてらさんだよ」とか答えてくれる事を期待しつつ

第三回「てらこやで」

本日、第三回日曜学校「てらこやで」を開催させていただきました。 すっかり季節は秋深まり、そろそろ冬の声も聞こえてきそうです。。。 そんな中、学校、幼稚園、保育園等で木の実を使った工作をしてみえるので、立法寺でも、アイディアをパク…。お借りして、秋の工作をさせて頂きました。 初めてのお友達もみえたので、いつものように皆で自己紹介。元気よく自己紹介をしたら、「なんでもバスケット」でお参りの担当を決めたら、今月のてらこやでも始まりはじまり!! 始まってからずっと来てくれている子は、はじめて来てくれたお友達に御念珠の持ち方やお経の読み方をおしえてくれていました。 三回目になるごえんさんの御念珠講座を聞いたら、工作開始!! 今回の材料は、どんぐりと、普通の松ぼっくりと、巨大松ぼっくり!!近所のお寺さんに頂いた巨大松ぼっくりを見た子供たちは、 「こんなん初めて見た!」「でかい!!」「何処に生えとるん?」と興味津々・・・。もりさんも初めて見たよ・・・。 自分の思い思いの材料をもって、するすると作品は出来ていきます。帽子を綿で作る子、どんぐり帽子に綿を詰める子、どんぐりに顔を書く子。どんぐりトトロを作る子。もりさんは、何を作るかで止まってしまうのに、皆の作るのの早い事・・・ ・・・お寺なのにツリーを作ったことは内緒ですよ・・・。 来月は12月16日の予定です。来月も楽しい遊びを考えておきますので、是非ご参加ください。 ※クリックすると詳細が見れますのでご覧ください

持ち替えても、重いものは重い。

南無阿弥陀佛 おはようございます。 久方ぶりのまとまった雨が空気を潤します。 最近の天気予報は滅多に外れませんね。 この雲も、昨日の報せの通りでした。 「おそらく」今晩には星空を拝める事でしょう。 しかし、今後どれだけ予報の精度を上げて頂いても、 「おそらく」という慎みを忘れぬよう忘れぬよう。 先般申し上げました通り、流感の季節が参ります。 インフルエンザの予防接種も始まっておりますので、 先日、子供達と共に早速打って頂いたところです。 しかし注射となりますと、子供達の足取りが重くなります。 やはり皆、「痛い」注射は苦手のようです。 昔は「予防接種」「注射」というだけで、泣き出したものでした。 現在は「帰り道にアイスを買ってもらう」事で、なんとか手を打って頂いております(笑) ちなみに、私は、注射が好きです! ・・・こう、切り出すとほぼ100%の御方が顔をしかめられますが。 もちろん痛みが全く無いわけではありません。 しかしそれよりも「興味」や「好奇心」が勝るのです。 「よくあんなもの(針)を刺して、無事でいられるな。」とか、 「出血もほとんど無く、素晴らしい技術だな。」とか、 そんな事をぼんやり考えながら、この度も針が刺さる様をまじまじと見ておた次第です。 扨々、僧侶の装いをさせて頂いておりますと、 時折「佛教って結局、心の問題、心の持ち方なんでしょう?」とお問い合わせを授かります。 物事を一方向から見るのではなく、別の面からも見られるようにしよう、と。 「人生の苦難」を別のとらえ方で歩んでいけるようになろう、と。 「佛教は心の思い方、持ち方をコントロールする方法なんですか?

死んだら終わり?終わらない?

南無阿弥陀佛 流感の季節が参ります。 インフルエンザの予防接種も始まっておりますので、 先日子供達と共に早速打って頂いたところです。 私は、これまでインフルエンザに罹った事はありません。 ただこれから罹らないとは限りません。 抵抗力をつける為の予防接種と言いますが、 私にとっては本当に罹った時に「やるだけの事はやったのよ?」と 自分を納得させる言い訳(予防線)にしている面も否めないのが、悲しい処です。 葬儀の御縁が続きます。 このような御縁を授かりますと、 「死んだらしまいか?」 と、しばしば問われます。 ・・・いったい私は、どんな答えならば満足するのでしょうか。 大切な人との別れは辛く、痛ましいものです。 どうして死んでしまったのか、 まだまだ共に生きていたかったのに・・・。 このような想いですと、「死んだら終わり」では都合が悪いのです。 死後の世界を求め、時には死そのものを否定し、死者が生き返る事を願う心すら、少なからず起こってくるでしょう。 反対に、自分に仇を為す者が死にますと、今度は「死んだら終わり」でなければ困るのです。 やっと居なくなったのに、死んだらアッチでまた遭うかもしれない。 もし生き返ってきたら堪ったものじゃない・・・。 このように、仮に「死んだら終わり」でも、 「死んでも終わりじゃなかった」としても、 この私が本当に満たされる事はあり得ないのです。 「あるのか、ないのか」というモノの見方、価値観がある限り、一生私は苦しみ続ける事でしょう。 扨、御念佛の御教えでは「このいのち終わる時、如来様のおはたらきによって必ず御浄土へ往く」と聞きます。 すると私は、 「

わたし、見られています・・・

ごえんさんだより更新できてません。なんだか、色々立て込んでおるようです……。そうならないように日頃から早めに仕事を!!と目くじらを立てる私ですが、仕事を増やすのも私であります。 さて、今日お風呂と子供の上靴を洗っておりましたらば、娘がやってきてこう言いました。 「かあちゃん、アタシ今からトイレ行ってくるから」 私は、「そうかー」と答えました。……が、 今更トイレについて行って欲しい歳でもないし、何時も宣言して行っているわけではありません。なんで母に断ってトイレに行くんだ?と、娘の行動に疑問がふつふつと湧いてきます。母は知りたがりです!!聞かずにはおれません。 「なんでわざわざ言ってからトイレにいくの?」 と聞きましたとも。 そしたら娘はこう言いました。 「え?だってかあちゃん、いつもお風呂洗った後トイレ行くやん。やで、先に行くよって教えてから行こうかと思って」 ……え? 「……かあちゃん、いつもトイレ行く?」 と聞いたらさも当然のように 「いつも行っとるやん!気づいてなかったの?」 と教えてくれました。 子供は親の背中を見て育つと言いますが、いつも何気なくしていることを、娘はしっかり見てくれているのですね。 子供のことを知っている、よく見ているのは私だと思っていましたが、その実、見られているのは、全てを知られているのは、親である私自身だったのだと、トイレに行く娘の背中を見てハッとし、急に娘の大きさに胸を締め付けられた土曜日でした。 ……娘の前で、はっちゃけすぎるのを気をつけようと思います……。 【過去の ごえんさんだよ

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